2011年1月
毎号楽しみに読んでいる富士ゼロックスの広報誌「グラフィケーション」が、"アジアとのつながり"を特集するということで、昨年11月、編集の方から私にも原稿依頼が来ました。
国際識字文化センターの田島さんを通じて知り合った、童話作家の津田櫓冬氏が紹介してくださったのです。ちょうど、佐賀に戻り、寝たっきりになりかけた父を自宅で介護していこうという時だったので、「まったく未経験のことをやり始めたばかりの、日本での生活の中でも言わば『混乱の非日常』の中にいて、遠く離れたカラーシャのことが書けるやろか」という心配もあったのですが、せっかくいただいたオフォアーは断るわけにもいかないし、また何と言っても、カラーシャのことや私たちの活動を知ってもらえる良い機会だと思い、依頼を受けました。
その少し前の11月はじめに日本パキスタン協会からの依頼で、昨夏の鉄砲水被害についての原稿を会報に書いた時は原稿用紙で16枚でしたが、それでも説明したいことがたくさんあってまとめるのが難しかったのに、グラフィケーションでは原稿用紙10枚だけだったので、その中に書くべきこと、書きたいことをどうわかり易く圧縮したらよいかが頭をひねるポイントでした。
父の介護は、夜中の1時、2時頃まで父のそばで付き添う姉と交代で、仮眠をとった私が朝まで父に付き添うかたちでやっていました。私は台所のテーブルにパソコンを置き、隣の部屋のふすまを半開けにして、パソコンの向こうにちょうど父の寝姿が見える角度に座って、気管を痛めてもう話ができなくなった父が咳込んだり、声を出したり、手を動かしたりしたら、すぐに立ち上げれるようにして、原稿を書き初めました。
私が10月に帰省する前までは、母が父の世話をしていていましたが、その頃までは父はまだゆっくりつたい歩きが出来てましたし、食べ物もむせながらも食べていましたので、食前食後の薬、食事やトイレの介助、おしめ交換、昼夜を問わず要求が多くて、病身の母は倒れる寸前でした。しかし、アメリカから一時帰国してきた姉と私が母からバトンタッチした後、徐々に食べられなくなって点滴だけに頼るようになった父は、そんなに手を取らせなくなりました。
レンタルの最新式の介護ベッドの、床ずれ軽減用のエアーマットがシューと空気を送る音が聞こえるだけの静けさの中で、断食僧よりも透明感につつまれた父は、まるで、「晶子が原稿を書いてるから、おとなしく寝ていよう」と気を使ったかのように静かでした。私がカラーシャ谷に根を張って生活することに反対し心を痛めていた父がもたらしてくれた、夜中から明け方にかけての厳粛で安らかな時間帯だったからこそ、私も昼間の自分と別人のように集中して原稿を仕上げることができた感じがします。
「カラーシャ族の谷での生活と今」
http://www.fujixerox.co.jp/company/public/graphication/current_number.html
ほんとうは上記の記事をペーストするつもりでしたが、長くなりますので止めました。お読みになりたい方はメールでお知らせ下さい。