2012年6月
今回、昨年9月に一時帰国してきましたが、食べ物の通りが悪くなってきていた九州の母のそばに「一緒に居る」ことに専念して過ごしていました。
とはいっても、母は姿勢もよく、杖もつかずしゃんとして歩いてましたし、顔色も悪くなく、年齢よりも若く見え、病人のようではありませんでした。
でも、このままだと食道の一部がふさがってしまうとお医者さんから言われ、4月に食道を拡げるステントというメッシュ状の筒を入れたのが直接の原因で、5月はじめにあれよという間に亡くなってしまいました。パキスタンの山奥の不便なところに暮らしていて、いつも心配をかけて親不孝をしていた分を少しでもつぐなう気持で、半年間ほど母と過ごせたのは、自分自身にとってもなぐさめになったと思うしかありません。
帰国してからは勤めに出るわけでもないし、家事手伝いといっても狭いアパートでたいしてやることないしで、もっぱら脱原発関係の情報をインターネットでチェックしたり、時々は集会に行ってみたりしていまして、少しずつ勉強すればするほど、「原発はこわい!いらない!」と認識するようになりました。それに、ルンブール谷の治安状態も先が見えず、何をどうお知らせするものかわからなかったこともあって、ここのところ、私のブログも主なる話題は脱原発運動のお知らせが多くなっていました。
冬の間にもサイフラーさんやヤシールがチトラールの町に出た際に、ちょくちょく電話はもらっていました。4月になると、チトラール地方のアフガンとの国境線を守るということで、ルンブール谷にもたくさんの兵士や警官が駐留するようになり、5月の春祭りも武装勢力のターゲットになりやすいということで取り止めになる話もありました。
結局中止には至りませんでしたが、外国人旅行者はほとんど入れてもらえず、かろうじて新潟のSさんとイギリス人ツアー客が許されたそうですが、Sさんには護衛の警官が6人、ツアー客には40人付いたというすさまじさだったそうです。春祭りの後にチトラールに来た別のイギリス人ツアーはルンブール谷に入ることすら許可されなかったそうです。
先日かかってきたヤシールの電話によれば、4月から谷に駐留している兵士や警官たちは、春祭りが終わっても、まだ居座っているとのこと。どこを見ても兵士だらけだそうです。数日前に警察がルンブール谷の奥のヌーリスタン村に潜んでいた怪しい男(タリバン?)を捕まえた際には、住民に7時以降は家を戸締まりして外に出ないよう言われ、「自分たちの村なのに自由に出歩くこともできず、まったくつまらない」とヤシールはこぼしていました。
2012年も半分が過ぎようとしていますが、カラーシャ谷の治安は相変わらずというより、むしろ悪くなっているようでして、今、私が村に戻っても、多分1、2ヶ月滞在できればいいぐらいで、しかも護衛の警官つきということになるでしょう。外国人が目立つ活動をしてほしくないというチトラール警察の意向で、図書室を開いたり、紙すきやクラフトの作業もできそうにありません。そういう状況の中では滞在する意味がありません。ですから、今はがまんして、国境の山々が雪を被って兵士たちが引き上げる冬の間に滞在した方が少し長く滞在できるし、活動もしやすいのではと思うようになっています。
私の住む家はルンブールにあるのに、そこに戻れない口惜しさ、そこで暮せないくやしさ! きっと、福島原発事故で否応無く住む家、畑、家畜を捨てて、避難されている方々の憤りはこんなものではないでしょうね。昨日の野田首相の信じられないような大飯原発の再稼働発言もあって、もう最近はくやしいこと、腹立つことばかりで爆発しそうです。(と最後はまた原発のことになってしまいました。)