2013年12月
11月10日、イスラマバードから週2便しか飛ばない飛行機に乗ることができたものの、ヤシールからの電話では現地は雲がかかっているということだったので、イスラマバードから離陸しても、ラワリ峠付近でUターンして戻る可能性があり安心はできない。チトラール空港に到着してやっとほっとする。7ヶ月ぶりのチトラールだ。
空港にはボンボレット谷のカラーシャ兄弟、ヌールシャイディンとブトーが中古のランドクルーザーで迎えにきてくれたので助かる。この中古車はヌシャヒディンの息子のムサシ・ディンが、彼が働く韓国の会社(チトラールの町の北部発電所を建設している)から安く買ったものらしい。
今や兄弟たちはそれぞれワイヤレス・ル-プとやらの家電話の携帯版を持ち歩いているのでこういうときは便利である。私の携帯電話はカラーシャ谷には電波受信ケーブルがないのでつながらないが、兄弟たちが持ってる携帯電話はカラーシャ谷でもつながる。(場所によってはつながらない)
イスラマバードからの日曜日のフライトは午後遅く3時頃にチトラールに着くので、チトラールの町の店で米、油、スパゲッティ、ダール豆、野菜等を購入しただけで、すぐにルンブール谷に向けて出発する。
夏(7月31日晩)の土石流と鉄砲水で、舗装道路からカラーシャ谷の麓の町アユーンに渡る大きな橋が壊れていたので、昔々私が初めてボンボレット谷に来た頃に使われていた旧道を通らねばならず、当時よりもメンテが悪く、先の土石流被害でところどころ狭くなっている道路を、たまにしか運転しないヌールシャヒディンの運転で走るのはかなりの緊張感を伴う。川べりの細い一本道をただ走るだけならまだしも、対向車とすれ違うときが怖い。
「バーバ(姉さん)、そっち側の道の端を見てくれ」とヌシャヒディンが言う。窓から顔を出して下を見ると、車の下には道がなく、崖下に冷たく流れる川が見えるだけだ。「きゃあ、怖くて下を見れないよ」と私が叫ぶと、後席のブトーが、「大丈夫、タイヤの幅にはまだ少し余裕があるよ。もう少し下がっていいよ。オーライ、オーライ」と言っているが、私は目をつぶって神に祈るのみだ。
5時頃ようやくアユーンの町に入る。11月の陽はすでに陰ってきている。アユーンでミルクなど残りの買物をする予定だったが即中止して、とにかく少しでも早くルンブール谷に着きたい気持だけだ。
カラーシャ谷に登っていく入口のところイスラマバードで世話になったフォジアに電話を入れる。(ここから先は携帯は通じない)フォジアは「チトラールに1回目のフライトで着いたのはよかったけど、こんな時間にあの恐ろしい道を走るの?アキコ」とびっくり声を出す。彼女は伝統工芸アートの調査や、日パ協会/美穂子寄付金のお絵描き教室プロジェクトでルンブール谷を何度か訪れていて、ここの道路の怖さを知っているのだ。「仕方ないよ。フォジア、無事に着くよう祈ってね。」と返すしかない。
先の土石流/鉄砲水で到るところ被害を被った道路は、ルンブール谷に入るとさらに悪くなり、あるところは水量が減った川の端を通り、あるところは路肩が削れて1センチの余裕もないほどギリギリの危ないところを何カ所も通る。もうあたりは真っ暗になっている。ボンボレット谷のヌシャヒディンはルンブール谷の運転は慣れてないことを思うと、ずーと緊張の連続だった。
真っ暗な中、バラングル村に到着。我々のNGOが日本政府の草の根援助で苦労して造った水力発電所は、2010年の大鉄砲水で発電機が壊れ、その後は修理しながらだましだまし動かしていた。しかし、国境を守るという理由で駐屯するようになった陸軍兵たちが、兵舎を建てるのに使う石を取るために、発電所の水タンクの上の崖を何度もダイナマイトで爆発させたために、今年の春には崖崩れが起き、タンクや水路が岩で壊されてしまい、村人たちが修理するまで2~3ヶ月電気が止まっていた。その後どうにか電気は来ていたものの、先日の土石流で再び発電機が壊れてそれ以来ずーと電気は来ていないという。(間に2日間だけ弱い電気がついていたらしい)
「AKIKOの家」の中の管理を頼んでいたグリスタンが、数日前の雨で私の部屋のベッドの上に雨漏りがしていたというので、この晩は自分の家には戻らずに、サイフラー・ゲストハウスに泊まることにする。
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shizue (水曜日, 04 12月 2013 20:27)
いやはや、大変な状態ですね。アユーンへも、その昔の対岸の旧道ですか。ヌールシャイディンとブトーが迎えに来てくれなかったら、村への足もままならない。これではチトラールにブログ更新で出て来るのも難しいですね。くれぐれも無理しないように。
ヌシャディンの運転で無事に着いて何よりでした。
ヤシール、グリスタンによろしく!!