佳世さんとのつながりで−1

(このブログは7月25日に書いたものです。)

 十数年前に、チトラールからペシャワールに向かう乗り合いハイエースで知り合い、それ以降仲良くしている新田佳世さんが、現在「村起こし協力隊」の仕事をしている島根県邑智郡美郷町にやってきました。

2006年夏、お母さん(左)とサイフラー・ゲストハウスに滞在したときの佳世さん(左から2番目)
2006年夏、お母さん(左)とサイフラー・ゲストハウスに滞在したときの佳世さん(左から2番目)

 佳世さんは日本人の枠を越えた行動力の持ち主で、20歳の頃、自力でオランダに留学し、教会のパイプオルガンを中心に音楽の勉強をしながら10年間滞在し、かたわらヨーロッパ各国も旅をしている。カラーシャの谷には、オランダ滞在を終えて日本に帰国する陸路の旅の途中で立ち寄っている。パキスタンが大好きという彼女は、その後カラーシャの谷だけでも3、4回訪れている。おまけにカラーシャ谷だけでなく、東欧を旅するついでに、ギリシャに留学しているカラーシャの学生に会ったり、ギリシャ女性と結婚したカラーシャの家を訪ねたりもしている。

 

 ネパールにも何度も行っていて、現地の友達も多い。彼女はいつも旅先でしばらく滞在して、現地の学校を訪れたり、コミュニティ活動に関わったりと、まるでボランティア民間親善大使のようなことを自然体で行える人物なのです。

 

 もっとすごいのは、2003年から2008年の間の2年間と1年半、なんと合わせて3年半もの間、佳世さんは北極圏の線のほぼ真下、カナダの北西準州のフォート・グッドホープの先住民族デネーの村にボランティア活動をしながら住んでいたのです。デネーの先住民族の人たちは、豊富な地下資源が発見されてから、政府のキャッシュ攻め政策に陥落し、今や村人の多くはアル中、若者は村から離され、寄宿制の学校に入れられて中途半端な英語教育を受けるので、デネーの言葉を話せない。英語がわからない年寄りたちと意思の疎通ができないなどの理由から昔からの生活は猛スピードで消滅している。

 佳世さんはその村で、学校で障害の子供に読み書きを教えたり、お年寄りにインタビューして昔の話を録音・記録するなどの貴重な仕事を、寒いときは氷点下45度にもなるという極寒の地で頑張りこなした。

 

 2009年から2012年まではJICAの専門員としてアルゼンチンに赴任して、日系3世に音楽を教える仕事もしていた。北極にいったり南半球にいったり、ヒマラヤに行ったりで、そんじょそこらの人たちの行動半径とは規模が違うのです。

 

 そんな彼女が、今は日本国内で半ボランティアをしているという。島根県美郷町で「町興し協力隊」ということだ。メールで「いいところだから泊まりにおいで」と誘われていたが、今回の一時帰国では、すでに平戸的山大島と嬉野温泉、浜宿の酒蔵通り3泊4日、旧友に会いに沖縄7泊8日、といつになく飛び回っているので、すぐは無理だろうと思っていた。

 

まず、有田で再会

 それが7月半ば過ぎに、「母と姪っこを連れて、佐賀の有田に行くから会いましょう」と佳世さんから突然メールが入り、有田に日がえりで出かけて行った。佐賀県で一番有名な有田焼きの生産地有田なのに、恥ずかしながら、佐賀生まれとはいえ、私は未だ一度も有田の町を歩いたことがなかった。もうすぐ400年を迎える歴史ある有田の町の石塀の裏通り、明治時代から現役の陶器工場、全国に名を馳せる由緒ある陶器のお店、いやあ、有田はすばらしかった。佐賀県の誇りです。そして佳世さん家族と一緒にそこをそぞろ歩けたことはとてもいい思い出になった。