12月1日
ペシャワールに3泊して、バラングル村出身の警官兄弟のツテで副監察長官から書いてもらった手紙(アキコ・ワダはチトラール・ルンブールにある自宅に帰るパキスタン政府のIDカード所有者だから、陸路を通過させるように。何かあったら副長官に電話するべし、という内容)とニサール上議院議員の手紙を持って、12月1日早朝にハイヤーでペシャワールを出発して午後2時半頃ディールへ到着。途中の道は以前ほど警戒ものものしくなく、1度だけIDカードを見せただけだった。
ディールからできればその日にラワリ峠を越えてチトラールに行きたかったが、暗くなると峠の道は危ないので、ディールに1泊して翌朝出発することになった。以前、ディールに泊まるときはディール・ホテルかアルマンズール・ホテルに泊まっていたが、ディール・ホテルはNGOに貸切りされていて、アルマンズールはなくなってしまっている。それで安全でしかもびっくりするほど高くないホテルを、確か、2、3年前にAKIKOの家を訪ねられた「ディールで何かあったら、ぜひ連絡しなさい」と名刺を下さっていた州議員の方にきこうと思ったが、あいにく彼の名刺は村の私の部屋にあって名前も思いだせない。
それでバラングル村のヤシールにディールで誰か知合いはいないかときいたら、バザールの中心にあるラハマンフセインさんの弟の店に行くよう手配してくれた。えっ、ヤシールとどうやって連絡とったのかって?実は、ルンブール谷にようやく携帯電話のアンテナ塔が建ち、携帯電話が使えるようになったのだ。これはグッドニュースといえる。
ヤシールはテントの仮教室で授業をしながら、ディールの店の人たちと連絡とったり、私にも途中途中「今どこだ?問題はないか?」と電話してきてくれた。日本だったら、教室で勤務中に外に何度も電話するなど考えられないことだが、こういうときはパキスタンのルーズでゆるいシステムは多いに助かる。でもそもそも、ヤシールを教育促進活動としてサポートしているのは私たちなのだから、私の道中を援護するのも彼の仕事のうちだともいえるわけだが。
ヤシールの知合いのカーペット屋さんに行ってチャイを飲んでから、ホテルでなくて、ラハマンフセインさんの家に泊めてもらうことになった。ヤシールはディールの大きな建設業を営む人を紹介するといっていたので、てっきりラハマンフセインさんがそうだと思っていたが、よくよくご家族の方々に聞くと、ラハマンフセインさんは何と今、ルンブール谷にいるというではないか。お店で対応してくれたのは弟さんと息子さんで、ラハマンフセインさんは大金持ちの建設業ではなくて、ルンブール谷でクルミや山羊の皮を買い付ける商売をしている人だった。ちょくちょく谷に来るので、ラハマンフセインさんが私を知っていて、彼自身が自宅に泊めるようにヤシールに指示したそうだ。
何にしても、私はよそのお家に世話になるのが嫌いではなく、むしろいろんな家族の生活が垣間みれておもしろい。「おもてなし」に関しては、東京オリンピックでわざわざアピールしていた日本人よりももっともっと昔からパターン人(パシュトゥーン人)はもてなしのチャンピョンなのだ。
ルンブールと同じぐらい寒いディールの高台に建つお家に車で案内してもらって、アユーン出身の奥さんやご家族に出迎えられ、部屋に案内されて、プロパン・ガスストーブの火がつけられた。そしてチトラール地方で使われるこたつ用のテーブルがストーブに置かれて、布団が被せられた。こたつの中にガスストーブが燃えてる状態なのだ。「えー!これは危な過ぎですよ。火事とガス中毒のダブルリスクだよ」と騒いだが、いつもやっているから皆さん平気な顔をしてらっしゃる。
こたつに足を突っ込み、テレビを正面にした奥の壁際の特等席に、タキヤ(肘掛け用の丸長いクッション)を2つ鏡餅のように重ねた前に私は座らされ、毛布を被せられて全く動かない状態で、熊のぷーさん人形みたくになっていた。夕食の時もお湯を持ってきてくれるんで動かないまま手を洗い、こたつの上に私のリクエストのサブジ(野菜カレー)3種とごはん、ナンが並べられ、夜寝るときにようやくトイレと洗顔のために立ち上がったから、4、5時間は1歩も動かなかった。
トイレは下にあった。どういうわけか扉がなく薄暗いので、私がこわがると思ったのか、ラハマンフセインさんの娘さんが壁のすぐ向こうで立っていてくれていたので、こちらはお腹が張って、ガス(おならという人もいる)を体外に出したかったんだけど、それもできず、家族部屋のチャルパイの布団に入ってから腹痛になった。がまんできず、夜中にこっそりかくれて(また、娘さんに付いてこられないように)トイレに行けたので、問題は解決したが。
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