本当は花嫁さんらの綺麗な写真があるけれども、パシュトゥーンでは女性は覆い隠す習慣を踏まえて、ブログやFBにアップするのは個人があまり明確に写ってないものを選びました。
First of all, I won’t load up photos of brides and females which are quite nice and beautiful, because of considering Pashtun tradition of parda/veil on women. I just selected the photos of general, not focused particular person.
長い文になってしまいました。でも短くする方が時間かかって大変なんですよね。
10月24日の早朝、ルンブール谷を出てアユーンの幹線道路で、予約していたチトラールからペシャワール行きのトヨタ大型自家用タクシーを待って、午前8時半過ぎにフロントシート(2500ルピー)に乗り込む。以前は14時間もかかったりしていたが、今はペシャワール、オールド・バザールに午後5時ごろ到着。
20数年来家族ぐるみで付き合っている、現在国会の上院議員フィダさんの長男と三男の合同結婚式に呼ばれてきたわけだが、10年前くらいからペシャワールは自爆テロが勃発し始めたので、4年前に病気の親戚の幼児の治療とグリスタンの歯の治療で1週間ほど滞在した他は、ずーと敬遠していたのでペシャワールは久しぶりだ。
オンボロタクシーを飛ばして、ペシャワールの郊外の住宅地ハヤタバードのフィダさん家族の家に6時前に到着する。せっかく早めに着いたのに家にはお手伝いさん夫婦以外は誰もおらずもぬけの殻。一族(姉弟8人とその家族)全員で長男の新婦の実家のあるアバタバードに花嫁さんを迎えに行く日だということ。こちらは24日にペシャワールに到着するとあらかじめ伝えていたのに、向こうからは事前に何の話もなかった。本もインターネットもテレビもない部屋で一人でふて寝していると、夜中の午前1時過ぎにワイワイガヤガヤ子供を含めた全員が戻ってきた。
翌日は、マラカンド峠の南東にあるフィダさんの故郷の村で結婚披露宴が行われる。遅い午後に一族で村に移動する。まずは村のフィダさんの家に。パシュトゥーン人の常で男性は玄関の客室へ、女性は裏の家族部屋に行く。10部屋ほどある部屋やベランダにはすでに到着していた親族たちでいっぱい。
フィダさん一族の女性たちは一斉に、それぞれ持ってきたスーツケースやカバンを開けて、豪華な衣装に着替え、随分時間をかけてメーキャップを施し始めた。主役は花嫁たちなのにと思ったけど、女性はパルダ(カーテン、ショール)の中というしきたりの中で暮らすパシュトゥーン女性にとって、結婚式は綺麗な格好をして騒ぎ楽しむ(女性だけで)数少ない機会だから、まぁ、しょうがないだろう。
7時過ぎだったか、着飾った女性たちとフィダさんの土地に設営された会場に行く。門からまっすぐ奥まで飾られたイルミネーションが綺麗だ。しかし残念ながら、イルミネーションの会場は男性用であって、女性は門から入って右側の駐車場向こうの大テントに案内された。サーカスのテントよりも大きいテントだが、飾り付けはない。電気もサーチライトのような強烈な光線を放つライトが一つだけで、テントの奥は暗がりになっていた。
そのうちに楽隊が音楽を鳴らしながら入ってきた。それに合わせてまず世話役の親戚の叔父さんが踊り出し、女性たちも輪になって踊り始めた。そして新郎の三男君が連れて来られて椅子に座らされ、踊っていた世話役の叔父さんが分厚い10ルピー札束を彼の頭上にばら撒く。それらのお札は楽隊の拾って袋に納めていた。
そうこうするうちに、男性会場の方で花火の打ち上げが始まった。しかし女性のテントの入り口は閉じられていて音しか聞こえない。こんな時すぐに私は「外国人」という例外的存在を表面に出し、堂々と入り口の横から外に出て、花火を束の間見物した。テントの中の女性たちには残念だったが、こういう田舎では花火なんぞめったに見れないだろうから、周囲の村人たちはきっと喜んだだろう。
下の写真
写真1:この夜はたくさんの花火が打ち上げられた。
写真2 :男性たちの会場に続くイルミネーション
写真3 : 大テントで楽隊に合わせて踊る女性たち
写真4 : イルミネーションの奥の男性会場の舞台のミラーボール・ライトの下で踊る男性たち(私だけ行くことを許されたが、つまらないのですぐ出た)
その後、私たちは車に乗り込んで、10分ほどのところにある三男の花嫁の実家に赴いた。門から庭にかけてのイルミネーション、白いテントに覆われ、地面に絨毯を敷いた会場が設営されていた。入り口で花嫁の親戚女性がオレンジ色の花びらのレイを客たちに渡す。花で飾られ、花嫁花婿が座るソファーが置かれた舞台の横には音響ブースも設置されてディスクジョッキーがコンピューターに繋いだ流行り歌を明るい会場に大音響で流し、その前に陣取るタブラなどの伝統楽器のミュージシャンがリズムをフォローしている。
その流行歌に若い娘たちは反応して踊り出す。そして家の中から花嫁たち(長男の花嫁も)が、花婿の妹たちが掲げる布(これは何か意味があるのだろう)を頭上に静々と登場して、舞台のソファーに座る。次に男性たちの会場側から花婿の三男君
が花嫁側の女性が掲げる布を頭上に現れる。先ほどの大テントの時のように、舞台前の椅子に座らされ、後に続いて入場してきた楽隊が囲むようにして音楽を鳴らし、世話役の叔父さんが踊りを踊ると、フィダさんの末弟が10ルピー札、20ルピー札をじゃんじゃんばらまく。音響係や伝統音楽担当のアシスタントたちが必死になってそれらを拾う。子供たちも必死になって拾うので、札がまかれると、押し合いへし合い、えらい騒ぎになる。
花婿が舞台に上がり花嫁の横に座り、フィダさんや家族たちも舞台に上がってからも「札のばらまき」は続けられる。そのうち灯明やヘナの盆を手にした女性たちが輪になり踊り始める。甘い飯やシロップ漬けの菓子のバスケットが舞台に置かれ、花婿の母親が花嫁、花婿、父親に丸い装飾された皿を持たせて、そこにヘナをつけ、シロップ菓子を口に食べさせる儀式を行う。同じことを花婿の叔母さんも行う。私も舞台に呼ばれて、手の甲にヘナがつけられ菓子を食べさせられた。
その後は音響ブースの音楽に合わせてダンス大会。そしてチキン、カバブ、肉入り炊き込みご飯、ほうれん草カレー、ナンなどのご馳走が振舞われた。夜中、長男の花嫁共々フィダさんの村の家に戻り、私はこの花嫁さんやフィダさんの娘たち、叔母さんたちと、6台のチャルパイ(木の枠に縄を編み込んだベッド)を壁際に並べた部屋に、床にエキストラのマットレスも敷いてあったが、わいわい、ケラケラ、修学旅行のような雰囲気の中眠りについた。花嫁さんはずーと長時間、豪華だが重い衣装と頭や耳、首、腕、指に付けたゴールドのアクセサリーで体が凝って疲れたとぼやいていた。
下の写真
写真5:中央の椅子に座った花婿(三男)に10ルピー札をばら撒く。
写真6:今の時代10ルピーなんて大した価値はないのに、音楽係の兄さんや子供、女性たちまで夢中になって拾う。
写真7:舞台に座った花婿と花嫁を、雇われたビデオマンと写真屋が撮影する
写真8:女性たちがメヘンディ(へナ)のバスケットを持ち、輪の中に置いて、踊る。
写真9:メヘンディを中にして踊る女性たち
翌日26日はワリマ(結婚式)。同室の花嫁さんは美容室に行き、女性たちは再びスーツケースの中をひっくり返して、衣装替えにメーキャップ合戦で大わらわ。この自分のファッション・ショーにかける費用と熱いエネルギーの一部でいいから社会問題に向けたら、この国(パキスタ)はもう少し良くなるかもしれないのにと思ったりして。女性の声が聞こえない国に民主主義などあり得ない。なんて、今の自分の国(日本)を見たら、あんまり大きい口は叩けないけどね。
昨日は亡き母親の、スタンドカラーのおばさんっぽくないデザインのワンピースに、パキスタンの白いズボンを履いて、15年前にネパールでいただいた白いカタを
ドパタ代わりに付けてどうにかよそ行きの格好にしていたが、今日は末娘さんに借りたパキスタンの国民服シャワール・カミーズ(あまり派手でないものを選んだ)を着る。パッと見は綺麗だが、裏を見ると縫製はかなり雑で、糸がほつれたりしている。昨日の母親の日本製のワンピースの丁寧な縫製の質の良さを改めて認識する。
朝10時半過ぎ、車に乗って家を出ると、ドローンを操縦する男性たちが、花婿をはじめとした一族が出発するところをドローンで撮影しようと待機していた。まあ、なんと大袈裟な。でもドローンの操縦士たちが稼げるんだったら、まあ、いいか。
フィダさん側の会場の前には飾り付けされた馬車が待機していて、それに花婿たちと父親、叔父さんが乗り込み、昨夜の三男の花嫁の実家に向かう。近親の男性たちが数頭の馬に乗ってついて行く。美しい白馬の「踊り馬」も来ている。きっとわざわざパンジャブ地方から呼んだんだろう。我々の乗用車がその後ろに何台も続き、村の細い道路はあっという間に大渋滞。村人たちはこのイベントに興味津々の顔で道沿いで見学している。この日のワリマには8000人の人が呼ばれたというが、村の全員が呼ばれたわけではないのだろう。
花嫁の実家に着く。昨夜の会場に「踊り馬」が踊りながら入って行く。そこに10ルピー札がばら撒かれ、子供、馬の担当者たちがこぞってそれを拾う。その光景を見ようと、取り巻きの女性や子供たちは周囲に置かれている白いソファーに靴のまま上がって、ソファーは泥だらけで座れなくなったので、私は「上がるなら、どうして靴を脱がないの?」と文句を言うが、ほとんど暖簾に腕押しの状態。こっちもすっかりシラけてしまう。
再びフィダさん側の会場、大テントに移動。そこでランチが提供されるというが、その前に舞台のソファーに座った花嫁たちとのツーショット大会。時々、外国人の私にもツーショットのお声がかかる。この会場では音楽や踊りがあるわけでもなく、ただただテーブルについてお喋りしながら食事を待つ。2時半過ぎにランチが配られた。以前、結婚式に行った時の食事はブッフェ式で、食事がスタートすると皆一斉にブッフェのテーブルに押し寄せ、中年太りしたパシュトゥーンおばさんのおしくらまんじゅうに跳ね返されて、やっと取り皿にありつけた時は食べ物がなくなっていたということもあったが、こちらは各テーブルに給仕してくれるので、あのような醜い場面はなくてよかった。
夕暮れになって、ハヤタバードに戻る。次男のサルマンが彼の部屋を使えと申し出てくれる。テレビはもちろん、Wifiの設備があるのがよろしい。が、せっかくの新しい部屋も脱ぎっぱなしの服、片方バラバラの靴、買い物した空箱などで散らかりまくっている。しかも従兄弟、親戚のお婆ちゃん、子供などノックもしないで入れ替わり入ってくる。散らかっていると落ち着かないので、ざっと部屋を整頓してやっても、ちょっと部屋の外に出て戻ってくると、誰かが荒していってたりする。こちらの人たちはぴっちりした個人が確立せず、一応次男の部屋でも、トイレを使ったり、テレビを見たり、本人に聞かずにみんなが勝手に出たり入ったりすることに疑問はなく寛容なのだ。
下の写真
写真10:花婿たちと親族が乗った2頭立ての馬車
写真11:多分パンジャブ州から呼んだであろう「踊る馬」なかなか美しかった。
写真12:フィダさん側の女性会場で、花嫁たちのフォトセッション
写真13:食事は肉中心のおご馳走。
写真14:どこからか噂を聞きつけたのか、宗教的行者がお布施を期待して来ていた。
27日の日曜日の夜はペシャワール・クラブでの「ワリマ」が開かれた。一昨日、昨日の村でのワリマは親戚や村人などの共同体に向けて、ペシャワールではフィダさんの議員としての、あるいはビジネスのつながり、花婿たちも長男は医者として、三男は技師としてそれぞれ公的な関係の方々に向けて、よりオフィシャルな結婚披露宴ということだろう。3500人が招待されたという。ビジネスの関係なのか中国人も5、6人招待されていた。
花嫁たちが衣装を変えるのは当然だが、親族の女性たちもさらなる豪華な衣装を身に着ける。しかし、花嫁の実家で行われた「メへンディー」のような儀礼ごとがなく、ただ花嫁とのフォト・セッション、その前で親族の女性たちのダンス大会(後で親族の男性たちも合流)そして遅い夕食(10時半過ぎ)で時間は過ぎていった。
私は前日の食事が当たって下痢して腹痛があり、前半は遠い席に座っていたが、座ってばかりいても全く面白くないので、「よしやっ」っとダンス大会に加わってからは注目が集まり、私とのツーショットの依頼が次々と。相手は娘や子供だし、ま、断るのも面倒なので、やけっぱちで応じたが、笑顔のサービスで顔がひきつりそうになった。ダンス大会は夜中の1時過ぎまで続いた。
下の写真
写真15:ペシャワール・クラブの女性専用会場
写真16:私も一枚だけ花嫁さんたちと証拠写真をパチリ
写真17:10時半過ぎの食事。肉、チキン、カバブ、アフガンライスの他にマカロニ、ロシアンサラダなどご馳走が出た。
写真18:夜が更けるにつれ、男性親族も加わってのダンス大会が続いた
聞いた話では、この数日間の結婚イベントの費用は2000万ルピーだったということだが、本当かどうかはわからない。日本と同じように、結婚祝いとして、お金を包む習慣はあるが、全員ではないようだ。だいたい1000ルピーから5000ルピーで平均として3000ルピー。収入のない私が、3000ルピーなど何とも思わないだろうお金持ちに3000ルピーの現金を贈るよりも、心が込もった品物をと、花婿たちには長さ1メートルのアンズの種子(杏仁。アーモンドに似ている。漢方薬にも使われる)の輪っかを。これらは私の庭で採れたアンズの種子だ。花嫁たちには私のオリジナル・グッズ、クルミのストラップを贈った。彼女らはさっそくスマホに飾っていた。
実は、今年の1月末に「ルンブール谷の学校生徒に簡単な給食を供給する」プロジェクトの件で、イスラマバードの上院議員会館にいるフィダさんに会いにいったのだが、その後コンタクトがなかなか取れず進展がないので、今回の結婚式の最中に、ゴミ問題を含めたそれらの件について少しでも話し合い、できれば州の環境担当のお偉いさんを紹介してもらおうと思っていた。
難しいかとは思っていたが、やはり男女別の会場、途方もない数の出席者で、フィダさんの顔を見たのはほんの少しの間、それも儀礼が行われる舞台上で、ゴミの話なんかできるはずがない。数日間の式が終了した翌日、フィダさんの自宅に泊まっていた私はチャンスを見つけ、話を始めた。州の環境担当に仕事ができる高官がいるという話を聞き出したものの、途中、田舎から来た親戚の人やらが別れを言いに来たり、なんやらかんやらで、話は断ち切れまくり、フィダさんは外出する時間になってしまった。