ルンブール谷の自宅に着いた-1 / Arrived at home in Rumbur-1

 タイ北部の山岳地帯で暮らす少数民族との交流の後、国内線のフライトでバンコクのドンムアン空港に戻り、預けていたスーツケースを引き取り、佳世さんと別れを告げて、バタバタとスワンナプーム空港に移動して、午後7時発のタイ航空イスラマバード 行きの飛行機に乗り込む。

 10時過ぎの到着予定が午後9時40分ごろイスラマバード空港に着き喜んだものの、預け荷物がなかなか出て来なくて結局午後11時ごろに空港を出る。メトロ・レディオ・キャブはファジアの家、F10まで2800ルピーと高くはあるが、夜中に外国人女性一人でその辺のボロタクシーに乗るリスクは避ける。

 いつもの宿泊先のファジアの家には、ファジア夫婦はドイツに長期滞在していて留守。コックさんと掃除・洗濯係の奥さん、そして3歳の一人娘が迎えてくれる。彼らとは長い付き合いだが、きちっとしたウルドゥー語が話せない私と、外国人と話したことのない彼らとの会話はなかなか通じない。むしろ外国人観光客に慣れているカラーシャの人たちが、相手が何を言おうとしているのか想像力が働くので通じやすい。

 それにしても長い間締め切られた部屋の暑いこと。窓を開けても、鉄の檻(泥棒避け)、頑丈な網(虫除け)、そして桟の多いガラス窓の三重苦だから、あまり風が通らない。何にしても翌日16日のチトラール行きの夜行バスに乗るつもりだったので、我慢できる。と思っていたら、ちょうどシーア派のムハラムの行事で16、17日が国中休日となっていたので、両替屋も銀行もバス会社も閉まっていて、2日間ファジアの家に足止めになった。

 

 7月19日夜8時、カラチ・カンパニー(G9)から出るマルヴィのチトラール行きのバスに乗り込む。何とクーラーが効いてるではないか。多分初めての経験だと思う。隣の席にはブニー近くの村出身の女性が座る。イスラマバードのカイディアザム大学を卒業したばかりで2ヶ月の休暇を実家で過ごし、その後は奨学制度を利用してイギリス留学を試みるという。

 私がグリスタンと電話で話していると、隣の彼女が「失礼だけど、あなたカラーシャ語を話せるのね」と話しかけてきた。私も「ええ、そうだけど、どうしてわかったの?」と訊くと、「私の父がボンボレットの OTDCのマネージャーだったんで、よくボンボレットに遊びに行ってたのよ」とのこと。彼女はカラーシャに対して寛容で、「ボンボレットで仲良くなったカラーシャの娘がムスリムの改宗してブルカを被っていた。とてもショックだった」と嘆く。

 

チトラール

 クーラーは3時間走ったスワット・ハイウェイが終わったときに止められた。それから以北は外の風が涼しく、数時間後の上部ディールになると風が冷た過ぎて、窓がきちんと閉まらない状態だったので、ジャケットを着てその上からウールの大きなショールを掛けてウトウトした。

 いつもは夜明け前の5時ごろチトラールに着くのだが、今回は途中で長く停車したりしたので朝の7時というちょうどいい時刻に着いた。マルヴィ・バスのターミナルの待合室で時間をつぶし、8時過ぎ頃に私のセキュリティ・ポリスのバスィールが村の乗合車で来てくれ、チトラールの町の中心にある総合バスターミナルへ。

 私が留守の間に、バラングル村にまた1台、乗合車が増えていた。以前私のセキュリティ・ポリスをしていたこともあるザルワリ(今もポリス)が中古の自家用バンを30万いくらルピーで買って、弟のザヒードが運転して商売を始めたのだ。私がこの村に来てから生まれた彼らは私の中では「子供」という感じが拭えなかったが、こうしてどんどん独り立ちしていくんだね。

 

 チトラールでジャマットの家族と私のタローの食糧、小麦粉60キロ、米20キロ、ダール豆2キロ、自分用のスワット白米、玄米、野菜、手土産用にビスケットの箱詰めを5個、などを購入して、病院に注射を打ちに来た村の娘と付き添いたちと一緒に、3ヶ月20日ぶりにバラングル村に帰ってきた。