張り合いのない日々だわい / Kind of aimless days

 私の人生の半分を過ごしてきたこの村への最後の奉仕として取り組んだ日本政府の草の根援助プロジェクトが、海外からの援助に対するパキスタン政府(経済省)の意味不明の規制などの問題で、最終段階で中止することになったのが、昨年の3月後半。それ以降、「図書室活動以外のNGO活動はリタイアする。これから先は自分自身の生活を中心にしよう」と決心した。もう活動レポートやパキスタン州政府への登録や更新などの事務作業もなくなり、肩の荷が降り、心からの解放感を味わいつつ、1年半が経った。 

 しかし、皮肉にも解放感と同時に虚脱感も忍び寄ってきて、以来何もやりたくない気分に覆われて、日々You Tubeを見ながらごろごろ怠けているのが実態だ。人間やはり、やるべきことや目標がないと生活がつまらなくなるということを身に染みて感じる。日々、気分が昂揚することもないので、写真も撮らなくなった。だからブログ更新も「明日でいいや」が続く。気がつくと1ヶ月近くブログをアップしていなかった。

 

葬式が多過ぎる

 

 私が一時帰国中、特に5月半ばの春祭り以降の2ヶ月の間で、ルンブール谷では5名も亡くなっていて、その中にはルンブール谷の宗教指導者のリーダーだったシャーザダさんも数えられる。ただ地元の窓口になっている関係者の勝手な判断で便宜的に谷でリストアップされた形だけの男女30名の宗教指導者の中で、彼はけっこう真面目に冠婚葬祭の行事の表に立ってものを言っていた。

 

 昨年末、彼は糖尿持ちで血液癌も発症したので、奥さんの従兄弟でクリスチャンに改宗してアメリカで店を経営している元カラーシャに呼ばれて、アメリカまで治療に赴いたが、治療費が高額だったので、すぐさま戻ってきて、ペシャワールの病院に入院していた。それまでは寝付いていたわけでもないし、まさかそのまま亡くなるとは思わず、私は一時帰国して、別れができなかったのは残念だった。

 彼は1990年代、当時谷にジープが1台しかなかった時代、病人を町の病院に運ぶのを主目的で、私がイスラマバードで中古ジープを購入する際にも尽力してくれ、しばらくは運転もやってくれたこともあった。

 上の写真はチョウモスの祭りで男たちを先導する生前のシャーザダさん

 

 8月22日の夏祭りが終わった後の27日、下流の集落の10代後半の青年が亡くなった。家から小学校までは子供の足で30分ほどかかる道のりを毎日通って小学校を卒業したほどのたくましい少年だったのに、その後筋無力症を発症してから徐々に動けなくなって、しまいにはトイレにも自分で行けなくなったという。気の毒としか言いようがない。

 夏祭り前後は雨が降り気温が下がって、私は鼻水ジョージョーの風邪を引いてしまったので、葬式にはちょっと顔を出しただけで、日本の薬を飲んで家で寝ていた。

 

 青年の埋葬の翌日、昔暮らしていたボンボレット谷の絆兄弟の一族のおじさんが心臓麻痺で亡くなった。

 このおじさんの長男は現在ニューヨークで暮らしている。親戚たちとカラーシャ料理店をやっているとのことだが、そう種類もない単純なカラーシャの料理をメニューに、物価の高いニューヨークで、金もないカラーシャがどうやって商売をやっているのか、私はおおかた信じていないが。

 

 亡くなった方が知り合いなのでボンボレット谷の葬式に行ってきた。正装でベッドに横たわる遺体は、心臓麻痺であっという間に亡くなったので、倒れた際に顔に少し傷があったが顔色も良く、眠っているような綺麗なお顔だった。人工股関節の身なので、斎場となっている広場に長いこと立っていられないので、私は絆兄弟の家で一休み。

 夕方斎場でルンブール谷とビリール谷からの弔い客、数百人に小麦粉のタシーリ(平たいパン)、山羊のチーズの夕食が出るが、女性たちは8割方残している。私も人工股関節で地べたに座って食事するのがしんどいので斎場での食事は食べず、近所の絆甥の家で肉入りご飯をご馳走になった。

 再び絆兄弟のブトーの家に戻ったら、ルンブールのうちの村の女性たち6、7人が客用のダイニングテーブルに座って、肉入りご飯とサラダを食べていた。斎場でのタシーリとチーズは残していたくせに、肉入りご飯はモリモリ食べている。

 ボンボレットでは昔ながらのタシーリとチーズの夕食を出されることは出されるけど、この数年、それと別に各家で牛やチキン入りのご飯を炊いて、挨拶に訪れる弔い客たちにもてなすようになっている。だったら、タシーリとチーズを止めて、斎場で全員のために大釜で肉入りご飯を炊けばいいのにと思う。チーズは高価なもので、通常口にできるものではないのに。食べ残しはもったいない。

 男性の葬式は徹夜で歌と踊りで死者を送り出す。私は夜チラッと斎場に顔を出して、すぐにブトーんちに戻って、彼の自家製の焼酎を飲みながら、別の村のおじさんたちと近況のおしゃべり。飲み相手がいると焼酎も進み、翌朝は少し二日酔い気味。

 

  ボンボレット谷の葬式から帰ってきた翌日、またも葬式。ルンブール谷の下流に住むカズィの奥さんが亡くなったのだ。カズィは今年の1月に亡くなったばかりで、そのことで、元気だった奥さんは病気がちになってしまい、ついにカズィの元に旅立ってしまった。