10月半ばにファジアに会いにイスラマバードに行く計画をしていた。お土産にうちのクルミを持って行くのに、収穫は10月2日にしたが、しばらく屋根上で乾燥させねばならないので、初めは10月9日(ジョン・レノンの誕生日だ!)辺りに行こうかと思ったが、ちょっと乾燥に時間が足らず、では12日あたりにしようと思い、ファジアに連絡したら、彼女は12日から3日間留守をするというので、では15日ぐらいに行こうと思った。
ちょうど、日本では石破政権が発足し、すぐに解散。10月27日に衆議院選挙があり、イスラマバード の日本大使館でも在外公館投票が16日から19日まで行われるという。今年佐賀で転出届を出すときに在外選挙認証というのも初めて届出したので良いタイミングだった。大使館でどういう風に行われるのか興味ある。
そしたら、イスラマバードにおいて「上海協力機構(SCO)首脳会合」が開かれるので、14日から16日までイスラマバードは閉鎖されるという。何せ、中国、ロシア、イラン、インド、ベラルーシ、カザフスタン、タジキスタン、ウズベクスタン、キルギスタンの首脳たちが集まる大きなサミットということでセキュリテイを考慮してのことだ。
そうやって、どんどんイスラマバード に行く日が遅れていった。実は遅れてよかったのだ。というのは9日から喉が腫れ出し、昼間髪を洗ったのがいけなかったかもしれんが、夜、肩から背中、腰にかけての節々が大変痛くなり、おかしいと思って熱を測ったら37度台の熱。滅多に熱が出ない私は微熱とはいえ辛いのだ。風邪だろうと、総合風邪薬を飲んで寝たが、翌日はもっと辛くなり、1日寝床の人となる。
普段だと1日寝ていれば翌日はかなり回復するはずなのに、11日も全く良くならず病人のまま。この日はカラシャグロム村の男性が放牧場で迷った山羊を探していて山から転落して亡くなった。健康だったら無条件で村の女性たちと葬式に赴かねばならないが、寝床でへたっていた身では無理だと勘弁してもらった。総合風邪薬がなくなったので、カロナールを飲む。
翌日、熱が下がったようなので、葬式に行く。埋葬に持っていかれる直前に、怪我で包帯をまかれ痛々しい顔の死者に一瞬の別れを言えた(心の中で)。4人の子供たちはまだ学校に通う年齢で、死者には兄弟もいないらしいが、土地はたくさん所有しているというから、子供の教育には影響がないことを願う。
葬式のあった村に嫁ぐ姪っこが、「ナーナ、風邪引いてるんだったら、カフワ(緑茶)を作ってあげるから家へおいで」というんで、朝からいつものジンジャー&シナモン湯も何も飲んでなかった私は喜んでついて行った。姪っこの家は初めて来たが、典型的なカラーシャ家屋で、今はまだストーブが外のベランダに出されていた。姪が裏で座っていた中年の男性(夫の兄弟)に、「ジャパニ・ナーナ(叔母さん)が来たんで、座っている椅子をちょうだい」と言ってボロ椅子と取り替えた。よく見ると、男性は全盲だった。
今では急激に減ったが、天井が低く、窓もなかった昔のカラーシャの家では、ストーブもなく囲炉裏に火を焚いていたので、家の中はいつも煙もうもう。それで目を痛める人が多かった。このおじさんの場合は子供の頃に病気で視力をなくしたらしい。
埋葬後に配られる、肉片、肉汁とギー、小麦粉の平たいパンを持って家に戻るが、肉は食べる気がしない。また熱がぶり返したようなので寝床の婆さんになる。翌日13日もその状態。14日になったので起きて雑用をやることに。しかし昼過ぎるとヨレって来たのでまた寝る。15日も頭痛、鼻づまり、喉の痛みが治っていない。カロナールが効かないのでロキソニンに変える。16日、ロキソニンが効いたのか、頭痛はほとんど取れ、イスラマバードに行く準備、乾燥させたクルミをしまったりの作業。
ということで今日は17日、イスラマバード行きのバスに乗るために、チトラールの町にに来ているが、これまで午前10時発だったのが、夕方6時半発になり、時間が余っているので、義兄弟ヌールシャヒディンの息子ムサの借家に来て、リラックスしている。ムサ自身はスワット地方のチャクダラの韓国企業で働いている。嫁さんはチトラールのどこかの事務所に勤めているが、どういうわけかいつも家にいて、いろいろ世話をしてくる。日本のように真面目にオフィスで働いている人は、パキスタンのこの辺りでは見当たらない。