先週木曜日の早朝にボロ乗合四輪駆動でルンブールを出て、その日の夕方6時半発イスラマバード 行きのコースターに乗り、翌朝6時にイスラマバード に着く。先日のブログに書いたように、その日、日本大使館に草の根援助プロジェクトの件と在外衆議院選挙の投票を済ます。土曜日はまだ風邪が治ってない感じだったので、部屋でゴロゴロ。
日曜日はイスラマバード在留邦人の友人Hさん宅で、Nさん、Mさんたちとそのお子さん方と一緒にランチ会。唐揚げやたくさんの料理がもてなされたが、私にとっての1番のメニューはHさんお手製のおにぎりとアンパン、メロンパン。彼女のパンは日本のパンそのもので、イスラマバードでパン屋さんをやったらいいのにとみんな言ってる。が、彼女はフルタイムで仕事をしているので無理だけど。
Nさんも美味しいケーキを焼く。彼女のケーキはオンラインで販売されている。ありがたいことに、私の作った「カラーシャ・クラフト」もバザールなどで売ってもらっていて、今回も数点販売した売上金をいただいた。おかげさまで私にとっては思いがけない臨時収入となった。お礼に売上の1割でも受け取ってと申し出たが、そうなると売りにくいということで断られた。普通なら「1割じゃ、割に合わん、もっとくれ」というところをボランティア、タダ働きでやりたいとおっしゃるのだ。ほんとうに日本人は謙虚で思いやりがあり勤勉だと、特にパキスタンではつくづく思う。
ペシャワールへ
翌日月曜日はイスラマバードに用事で来た古い友人のナシールさんと長男さんが夕方ペシャワールに戻るというので、私も同行する。私はナシールさんが結婚する前から知っているが、今は三男二女の父親となられている。長男が今度ロンドンの大学に進むという。ナシールさん兄弟は中古車ビジネスで成功し、ナシールさんは元上院議員、彼の兄ファラムさんは前上議員になって、特権階級の仲間入りされている。今回高速道路の料金所で「上院議員だ」と言ったらパス(無料)だったのには驚いた。現議員だったら、まだわからないでもないが、何年か前に議員だっただけで高速料金が免除されるとは驚き。
ペシャワールは大気汚染がひどく、昼も夜も空気は灰色。30年前にパシュトゥーン人ザキールと英国人アニー夫婦とペシャワールに小さな一軒家をシェアで借りて住んでいたが、今だったら絶対住みたくない。肺病か喉の病に冒されてしまう。夜9時過ぎにペシャワールの郊外住宅地に着く。ファラムさんの三男夫婦の部屋が空いていたので、そこの大きなダブルベッドで寝る。
翌朝7時ごろ起きて部屋を出て、台所や廊下、庭をうろつくが誰もいない。かろうじて娘を学校に送っていくナシールさんの弟さんに出くわしたが、「他のみんなはまだ寝てる」とのこと。10時過ぎにナシールさんの奥さんがやっと起きてきて、朝食を作ってくれる。彼女の年頃の娘たちや息子たちは昼近くまで起きてこない。なんだか時間がもったいない。朝、太陽のエネルギーをもらいながら働き、勉強すれば効率が上がるのになあ。
夜はナシールさんの近しい友人の息子さんの結婚行事のメヘンディが行われるというので、私も参列する。結婚行事は度々呼ばれているので目新しくないが、花婿のお家の豪華さには驚いた。
イスラマバード のファジアやファラムさんのお宅も日本人の感覚からすればかなりの豪邸だが、このお家の内装は西洋風デザインでホールもキチンも広くて、アメリカの家にいるようだ。聞けば花婿の兄弟2人はアメリカ在住らしい。しかし、住んでる人たちは普通のパキスタン人で、挨拶もきちんとしないし(私に)、上流階級の人間とは思えない。
なんだか豪邸の建物と住んでる人がチグハグな感じがした。パキスタン人はお金を持てば豪邸が欲しくなるのだろうか。しかし、家から一歩外に出れば空き地にゴミが捨てられ山となり、空は大気汚染で青空は見えないような所に自分の家だけ豪華に建てて、その中で汚染された空気を吸って生活するのが楽しいのだろうか、と考えてしまう。
(以上、パキスタン友人の名前は仮名となっています)
30年ぶりにルスタムへ
ペシャワールに2泊した後、マルダン経由でマルダン地方の北東にあるルスタムという町に向かった。旧友ザキールの親友だったジャンナリさんのお宅に30年ぶりに伺い、英国から一週間の里帰りしている、当時まだ10歳かそこらだった長女のスポグメイに会うためだ。
弁護士だったジャンナリさんは仏教徒のように穏便な方で、ガンダラ仏教遺跡を愛し、大晦日には仲間たちと近くのカシミール洞窟に登り、瞑想室など様々な仏教遺跡で一夜を明かし、山の間から昇ってくる新年の日の出を拝むのを年中行事としていたほどだ。
大変ショッキングなことに、10年前、他人の車に乗っていた際にギャングかテロリストの銃弾に遭い、巻き込まれて亡くなられた。私もルンブールに家を持ってボランティア活動などをするうちに、パキスタン国内といってもイスラマバード以外はなかなか訪れる機会がなくなってきた。今回スポグメイの里帰りに乗じて、ジャンナリさんの墓参りもしたいということでルスタム行きを決心したわけだ。
村人のために建てたマドラサ(神学校)、使用人の家々、畑、と付近の広大な土地は息子さんが継いでいるが、家族の家屋は私たちが30年前に泊めてもらった時と全く変わらず、典型的な田舎の家で、広いベランダの前は種々の蜜柑、レモンなどの木々が茂り、のんびりムード。大気汚染がひどくなる一方のペシャワール、マルダンから、ようやく青空の見える環境にほっとする。
長女スポグメイは英国に20歳で勉学に渡り、向こうで外科医者をしている親戚男性と結婚して、今は大学に進学した娘、高校生と中学生の息子、計3人の母親である。30年前にこの家で会った時の活発で聡明な少女とはいろいろとおしゃべりをした記憶があるが、あっという間に落ち着いた40歳女性になってらして、感慨深いものがある。彼女は大学時代、日本人のクラスメイトと友達になり、日本の文化などけっこう知っていて日本びいきだ。私とは10年以上前にFacebookで再会し、時々連絡を取り合っているから、今回の訪問が実現したわけだ。
1990年代初めに私の記事が「毎日グラフ」に「ガンダーラ仏教遺跡が危機に瀕している/イスラム国家の制約 盗掘マフィアの跳梁」というタイトルで掲載されたが、その取材で大きく協力してもらったのがジャンナリさんだ。
ルンブールへの帰り道
スポグメイのハイヤーでマルダンまで送ってもらい、テマルガラへの前席のダブル切符まで買ってもらい午後4時前にテマルガルに到着。うまい具合にチトラール行きの乗合ハイヤーが前の1席が空いていて、すぐに乗り込み、チトラールへは夜9時半ごろ到着。カラーシャの甥、ムサの借家に泊まり、翌日夕方無事にルンブールに戻ってまいりました。
今回、あらためて、自分の住むルンブールが一番だと確信するに至りました。空気がきれい。周囲に親戚や知り合いがいっぱいいる。日々、何かしら雑用があって退屈しないなど、都会で暮らすよりよっぽどよろしいのです。
村では収穫した松ボックリから実を取り出す作業に忙しくしています。ダジャリたちの今年唯一の現金収入になる。